自由に生きるのに必要な名前

いくつ名前があるのかと問われ、彼は「自由に生きるのに必要なだけ」と答えた。

映画「ハウルの動く城」でソフィーの問いかけに答えるハウル
元々児童文学育ちなので原作小説の「魔法使いハウルと火の悪魔」が好きで、大きくストーリー改変されてしまった劇場版に思うことがないわけではないけれど、劇場版ハウルのこの台詞は好きでずっと覚えている。
児童文学における名前の扱いといえば、ハリー・ポッターの「名前を呼んではいけないあの人」や、バーティミアスの魔術師は本名を呼ばれると魔術を無効化される世界観も思い出せる。名前に対するわたしの考え方は小中学生のころに読んだ児童書、海外のファンタジー小説によって育まれたのだと思う。

名前は存在を、キャラクターを縛る。
たとえば会話をするとき、大抵の場合はすぐ目の前に聞いてくれる人がいて、口に出した瞬間にその言葉は自分自身と強く結びつく。その積み重ねによってこう考え、こう話し、こう振る舞う、「この人はこういう人である」と理解していく。その理解した形を扱うための識別子が名前である。
ハリー・ポッターの世界の魔法使いたちはヴォルデモートの名前を呼ばないことでその存在に対する理解を放棄した。バーティミアスという悪魔に本名を知られた魔術師ナサニエルは、自らのしもべとして召喚した悪魔に対する支配力を失ってしまう。魔法とファンタジーの世界において、名前は存在そのものを理解するための最も簡単な手がかりになる。
だからこそ、もし名前を変えることができるならそれはつまり、別の存在になれるということだ。
ハウルは「魔術師ジェンキン」「魔法使いペンドラゴン」「恐怖のハウル」そして「ハウエル・ジェンキンス」の名前を持った。作中で、その理由は身元を隠すためだと語られている。とかげのしっぽのように、名前を自分から切り離すことで、いつでも逃げられるように。

社会に生きるわたしたちがハウルのように「自由に生きるのに必要なだけ」の名前を持つことは難しいけれど、インターネット上においては、こうしてリアルな自分自身と一対一ではない「わたしではない個人」の名前を持つことも簡単にできる。
だからこの場所は居心地が良い。誰でもない個人として認知され、自分自身のある側面を縛られることなく表現することができる。

いま人がインターネット上で持つアカウントの数は、それがその人にとって「自由に生きるのに必要なだけ」の名前の数なのだと思う。